アンナプルナ農場の気まま日記

信州伊那谷で有機農業に取り組んで20年。農場の「いま」をお届けします。

山田屋さんのこと。

少量多品目をつくり、地域自給を目指す有機農家にとって、なくてはならないのが米や麦、雑穀の精白や製粉などの加工をする機械、施設だ。なんでも自分で揃えようというのも大事だけど、餅は餅屋、昔ながらの業者に任せてともに生きるというのが好きだ。

そんな考えから、地域にある精米所とずっとつきあってきた。たいていが大正から昭和初期から続くような老舗だ。でも少量加工を依頼するような農家はだんだん減少し、店を維持するのが難しくなり、経営者の高齢化もあってどんどん店をたたんでいった。

そんな中、隣の宮田村にある「山田屋製粉所」は、どんな注文にも応えてくれる、われわれのつよーい味方だった。電気が通ったとほぼ同時の大正年間に創業した店内は、梁に通した回転軸からたくさんのベルトがいろんな機械につながり、ぶんぶんうなりながら製粉や精白をしていた。見ていて飽きなかった。

10年ほど前、高齢の父親の後を継いだのが現代表の3代目(?)、山浦さんだった。都内でのサラリーマン生活に見切りをつけ、故郷での粉屋仕事に身を投じた。ほとんど一人で店を切り盛りし、ところ狭しと並ぶコンバイン袋にはそれぞれ「◯◯町 ×× そば製粉」「▽農場 ひえ」などと書かれ、粉まみれで奮闘するおじさんが次に取り上げてくれるのをしんぼう強く待っていた。

そんなおじさんに敬意を表した僕はファリャの「三角帽子」のCDをプレゼントしたことがある。権威の象徴である三角帽子をかぶった悪代官と、それをからかう粉屋とその恋女房の反権力ぶりを描いたお話に、おじさんは「それ、俺じゃん」と喜んでくれた。いや、恋女房はどこにいるんだ、というツッコミは控えておいたし、その後ちゃんと聞いてくれてたかどうかも知らんけれど。

さて。

僕が昨年秋に出した小麦はとうとうおじさんの手に掛かることなく、かぎがかかった店内に放置されたままになった。二ヶ月ほど前、店には突然「当分の間休業します」の張り紙が出された。電話もつながらなくなった。

365日、いつでも開放されていた店に突然静けさが訪れた。

がんと闘っていたのは知っていた。お見舞いに行こうと思い、店を引き継ぐ意思を固めた仲間と店の近所で聞き込みをした。答えは絶望的なものだった。

「2日前に聞いたところなんだけど、山浦さん、亡くなったよ」。

        ・・・・・。

ショックだった。もう少し早く、店の存続を話し合っておけば良かった。身よりもほとんどなく、後のことを相談する人はだれもいなくなってしまった。


県内でも比類のない、小規模農家の強い味方。これからどうすればいいのか。山田屋さんと山浦さんに感謝と心からの哀悼を捧げつつ、僕はいま、途方に暮れている。