アンナプルナ農場の気まま日記

信州伊那谷で有機農業に取り組んで20年。農場の「いま」をお届けします。

謹賀新年

遅ればせながら新年明けましておめでとうございます。
本年も皆様にとって良い年になりますよう。弊農場もどうぞよろしくお願いします。昨年祖母が亡くなったためご挨拶は欠礼いたしました。ご連絡が行き届かなかった方々には大変失礼しました。

さて農場主は年明けから兵庫県の実家へ。子ども二人連れ、ばたばたと過ごしてきました。

両親の顔を見るのが一番ではありますが、密かに楽しみにしていたのが一人だけの朝の散歩。子どもを早く寝かしつけて一緒に寝入ってしまうためもありますが、習慣で朝4時台には目覚めるので、まだ真っ暗なうちにでかけるのです。

例年限られた日程の中で歩き回れるのはごくわずか。いつもはご近所をまわる程度なのですが、今年は思い切って小さい頃よく遊んだ川沿いの湿地帯へ出かけました。

農場主の実家は神戸の郊外にあり、1960-70年代に次々に団地造成がされた典型的なニュータウン。でも私が生まれた40年ほど前はまだ開発されない森や小規模な田圃がたくさん残っていたのです。当時はよくそんな湿地帯に下りて、ため池や田圃、そして雑木林をよく探検したものでした。
中学に入る頃からそのあたりはどんどん宅地開発され、小さな区画の建て売り住宅やマンションが林立するようになり、次第に農場主も足が遠のいていたのでした。高速(第2神明)が湿地をまたがるように通り、神戸学院大学があった程度で、巨大な(幼心にです)なまずがいた沼や、ザリガニやフナを捕った川や沼、湿地(モウセンゴケもあったなあ)が遊び場でした。

地形の記憶を頼りに歩いて行くと、ところどころに記憶に残る箇所が。それはちょっとした階段だったり、用水だったり、高速の橋桁だったりするのですが。道路の法面などに大きなクヌギがあると、これは当時どのくらいだったのだろうなどと考えながら歩いていました。

そんな中、驚いたのが高齢化により空き家になった住宅を再々開発してできた老人ホーム。よくフナを取った大きな池はそのまま巨大なそれになっていましたし、ほかに高齢者用マンションなど数軒がその狭い区域内に乱立していました。

うちの親も含め、昭和40年代にニュータウンに入ってきた人達ももう高齢者。子どもは外に出て行き、団地は空き家が目立つようになってきました。そんな中、時代の流れなのでしょう。ニュータウンがふるさとというには、あまりにも周囲が変貌し、自分にはふるさとがないのか、とあらためて慨嘆しました。

親が転勤族だったり、震災で引っ越したりした人に比べたら実家もそのままだし親はまあまあ元気だし、恵まれてはいるのでしょうが、この風景が失われた寂しさというのはきついものがあります。

農場主が農業を目指した原点がここにあります。風景の記憶をしっかりとどめて後生に残すこと。伊那という新天地に来て12年。この地を耕しながら子育てをして、次世代にこの地を引き継いでいきたい、と朝の散歩であらためて実感しました。

3泊4日の旅から帰ったら伊那は穏やかな日が流れていたようでほっとしました。さあ、また一年頑張りますか。